不食なひとたちの体験談


複数の人の、不食、断食、リビングオンライトの体験談を以下に記載

Alenara
私はごく普通の食生活をしていた。食物の働きなども全く知らずに。数年前、焼肉を食べた時が私の分岐点だった。それを食べた時、胃は重苦しく、頭はくらくらし、気分は最悪。食べ物は体に影響を与えるのだということを実感して、それまで食べると気分が悪くなっていたもの全部やめる事にした。
でも、回りの人たちは変わった食生活を始めた私を非難した。食の専門家や医者まで出てきて止めるように説得し始めた。それでも自分のの生活を変えたくなかったから、本や他の情報源を探して調べ始めた。
その間見つけた方法という方法は全て試した。ベジタリアン関係、ベーガン、生食、フルータリアン……。でも、真の食事法と思えるものはなかった。直感的に自分のやりたいようにやり、また科学的に栄養や心理について調べた結果、同じ結論にたどり着いた──人は食べなくてもよい!
しかし、いつ、どうやってやめられる? 
果物ダイエットをしばらくした後、断食をしばらくするというような「規則」や「制限」がいつもある。私はそれらを全て試し、それでもいい方法が見つからずにいた。しかし私の食生活を認めようとしない人たちの圧力のもとにいた私は食べ物に最後のチャンスを与えた。全ての食べ物を試したのだ。食べたいと思うものは全部食べ、その事に耽った。もし、食べる事が人の熱源となるならそう感じてもよいはずだ。しかし、私は食べる事に飽きてしまった。その上、人々は私でなく、私が食べる物、又食べない物を見るだけで私を人として見ていないということに気づいた。だから皆を抗議すべく、不食を延期する事を止めた。すなわち食べる事を止めたのだ。
私は空腹感もなければ喉も渇かない。何で生きているのかと聞かれれば、自分自身と答える。食べ物や料理のことを考えもしなければ食べたいという欲求もない。もしあるなら食べているだろう。時々アイスクリームやフルーツジュースを楽しむ事がある。そんな時はそのものが解けてなくなるほど長く口の中に入れておく。そうすると食べ物が胃や体に影響を与えずにすむ。最近、たんぱく質(鶏肉、魚、ピーナッツ)を一週間に2度食べる。その時、完全に不食をしたことで得た、人の通常感覚を超えた感覚が楽しめる。(通常の自分の精神状態より少しアップした感覚がいい。食べ物で、人は変われる)
不食は簡単だ。ものすごい自由をくれる。食べなくてもいいのだ。同時に、食べたいならそうしてもいい。しかし何よりいい点は、自我という素晴らしい感覚を持てる、自分の足で立つ、自分を支える事のできる人になるということだ。何物も,食べ物でさえ、自我の存在を忘れさせないあなたが、あなたという命を常に感じていたら、他から命(食べ物)をもらう必要はないと分かるだろう。

James
1990年代半ば、肉体は光だけで生きられるという情報を目にしたとき、私の心の奥が「そうだ!!」と反応した。何も迷う事はなかった。すぐに納得した。これこそ自分がずっと探していたものだ。すぐこのやり方に自分を合わそうと思った。
その頃までには食事法や食べ物に関する事はくまなく研究し尽くしていた。21日間プロセスの事もずっと頭にあったが最終的にそれは自分むきではないと感じ、しばらくの間、菜食的ライフスタイルにはまっていた。
物事は起こるべき時に起こるようにできているようだ。光で生きるという願いが肩をたたき続けてたのだろう。この6年間、菜食的食事から、卵も牛乳も摂らない完全菜食主義者になり、さらに生食になり、数回の断食したのちに、今ではトロピカルがメインのフルータリアンになった。
それと食べ物をお皿に載せ食べ始め、半分くらい食べると、体からメッセージ「もう十分」というのが聞こえるようになった。
瞑想では最も高い自分のエネルギーに集中、パワフルなビジュアライゼーションをして体のリプログラム(体の状態、体重ともにベスト状態であるように)を行った。ジャスムヒ−ンの調律チャントを読んだ時、いつもならその量だったらすごく体重が減ってしまうくらい少ない食事量で、安定した体重を保つ事ができていたので、不食は、まさに神から私へのプレゼントだと思った。
「今が自分のベスト体重」「今プラーナから栄養を得る周波数になっている」など、何でも思いつくものを唱え続け、同時に、私の中の全ての細胞が内側の世界から光を喜んで吸収しているところを目に浮かべた。このプログラミングを長くする事で、望みどおりの結果を得ることができた。また、神聖なる自我に、この変容過程が楽しく、苦労することなく進むよう導いて欲しいと頼んだ。
この過程において最大の効果を発揮したのは、自然界に存在するプラナを全身に巡らせる潜在意識的プラナヤ−マ(調息法)だ。私は、フルーツダイエットをやめて、「社交上、または楽しみのために食べてもいいが、光が私の栄養だから食べなくても大丈夫」という状態になることを想像した。
ほとんどの日私は食べずに、水かハーブティ、たまに健康的な食べ物を少しだけ楽しみ、自分の肉体から地球、そして魂の状態に益をもたらしていると感じている。だからこの場を借りてきちんと事実を書き留めておきたいのだ。でもそれ以上に、神聖なるものと繋がる自分を感じ、その事を思うと、私の心は喜びの唄を歌い始める。

Bahu
このことを教えてくれた友達に今感謝している。それを聞いた瞬間、それだ! って思えた。その後5年間、食事はだんだん軽いもの、健康的なものになっていき、しまいに食べ物に飽きてきて食べると気分が悪くなった。その友達と一緒に21日間プロセスをした。私の心理的不安をカバーしてくれる相棒の存在は重要だった。
しかし、彼らはそれそれの場所に戻ってしまうと、ひとりですることがつらくなってきた。その上、新しい人々と働き始め、新しい友達ができた。私のしている事を説明したりするのがとてもストレスになってきて、もうどうでもよくなり、調子が悪いから食べないんだということにした。
今でも食べたくない。しかし本当に食べるのをやめる時は今だ──と思える時が来るまで、食べるかもしれない。
確実なことは、私が物を食べる一番の理由は感情的なことである。食べなくても生きられると100%信じているのだから、恐れ、ということではない。なぜなら自分で試して実証したのだから。3ヶ月以上、空気と液体の生活をした。ブレサリアンになれるのではないかとさえ思った。なぜなら、食べ物をとらずにいればいるほど、液体もあまり欲しくなくなった。体が求める時には飲んだが、量はそんなに多くなかった。
とにかく、私の食べ物への執着は完全に感情的なものだ。心理的ブロックや心理的渇望を食べ物で満たすのだ。それが一つの問題。もう一つ、社会的なこと、私が食べない事、またはほんの少ししか食べない事を私の周りの誰もが知っている今の状態でさえ、まだ異常と思われている。20人の医者が何か問題があるに違いないと私を調べようとしている。
このことが、もっと世界に広がり、誰もが心配することなくこの生活ができる世の中に早くなる事を願うのみである。